現代の旅でも、国内の辺鄙な場所や海外でとても気になる現地事情は、トイレやお風呂関係です。
トイレやお風呂に関する習慣も違えば、使用方法・スタイル・設置場所などで旅の快適さが大きく変わってくるからです。
参勤交代の大名行列も同様、常にいくつかの藩が入れ違い重複して街道を行きかうこの時代の光景は、さながら現代でいうなら駅を行きかう電車のようです。
今でも普通に駅でこのような団体を見かけたら、何か大変そうだなとかトイレやお風呂事情が気になってしまいますよね。
というわけで、参勤交代のトイレや風呂事情について調べてみました。
大名の風呂やトイレは全部自前だった!
大名行列の人数が多くなった理由は、大名専用の荷物が数多く運ばれそれに付随する人が多く同行していたことによります。大名専用の風呂桶や手桶、腰かけ、携帯トイレまでもが持ち込まれていました。
大名および家臣達が宿泊する本陣・脇本陣という宿場町の宿は、地域でも裕福な有力者の屋敷が提供されていたため、風呂や雪隠(トイレ)も完備されていました。
しかし、大名はそれらを使用せず、自ら持ち込んだ専用の一揃いを使用しています。
戦国の世が終わり太平の時代が長く続いたとはいえ、藩主の身に何かあってはいけません。
いつの時代にも暗殺・毒殺の危険があるのが世の常、危険から極力身を護る必要がありました。
風呂やトイレという場所は、たとえ警備をしていても無防備で逃げ場のない空間です。
そのため、時として想像を絶するような対処法もあったのです。
焚かない「五右衛門風呂」
本陣のような立派な屋敷には、当時一般には普及していなかった風呂場がありました。
関西地方から普及していった「五右衛門風呂」です。
今でも人気があり有名な五右衛門風呂スタイルのお風呂は、大きな鉄製の鋳物の釜を底から薪火で焚く風呂です。
底が熱く加熱するため木製の底板を踏んだり下駄を履いて入浴しますが、とても体が温まる反面、うまく入らないと大やけどしてしまう危険性もありました。
そのため、大名がお風呂に入る場合は火を使わず、お湯は別のところで沸かして風呂に入れて使用しました。
この際持ち込んだのは風呂桶だけでなく、手桶、腰かけ等もありました。
五右衛門風呂にどっぷりつかる風呂以外に、風呂釜がない所では簡易的に風呂桶で湯あみをする方法も、庶民の間でも一般的に行われていました。

街道の道中に温泉で湯治もした
幕府が参勤交代のために整備した全国の街道により物流がさかえ商業が発展、やがて庶民の間に寺社巡りや湯治など一大旅ブームも始まります。
当然のごとく、街道沿いには温泉のある宿場町もあちこちで盛り上がりました。
五街道とそれにつながる脇街道では、かつて大名達が参勤交代の道中に湯治場として利用していたと伝わる温泉地が今も残っています。

当時の人から見ても大変そうな参勤交代のトイレ事情
いよいよ参勤交代にまつわるトイレ事情についてです。
江戸時代に数百~数千人が利用できるトイレなどあるはずがない!と思いきや、江戸時代の日本は究極のリサイクル国家であり、衛生先進国的な一面がありました。
海外輸入がない、自給自足の島国であり農業国でした。
土地を痩せさせずに収穫をあげるためには大量の肥料が必要となるため、鶏糞や堆肥などでは足りずに大量の人の糞尿(肥え)が使われていました。
大きな土地を所有する農民は、良質な“肥え”を手早く沢山収集するために人が多く集まる場所に今でいう公衆トイレ(公衆雪隠)を設置していました。
良い暮らしをしている人ほどその糞尿は滋養が多いとされ、その肥えを回収する権利というものもあったのです。
当然ながら、人や馬が多く行きかう街道も人気のスポットでした。
馬糞は当時肥料の最高ブランドであり、街道の道筋で馬糞を拾うのを仕事とする者まで出てきました。
もちろん、あらかじめ自分の所領地を大名行列が通過する知らせを受けた現地の藩側が、街道沿いの公衆トイレとなる小屋を規則的な間隔で設置して整備を行っていたという記録も残っています。
大名とはいえスタイルは人それぞれ…基本は携帯トイレ(おまる)
殿様の性格や藩の気風によりますが、大名は刺客を避けるため基本携帯トイレ(おまる)を長持に入れて運搬させていました。
道中では厠籠を同行させ、そこに乗り移って用を足したとされています。
大名によっては厠籠ではなく、道端に簡易的な小屋を設けたり、草むらに目立たないよう周囲に萌黄色の幕を張りめぐらせ見張りも近寄らせず、自分で用を足した後に土や石をかぶせて後始末をした方もおられたようです。
排泄に関する羞恥心は環境や育ち方でも様様ですが、嫌なことはいやじゃ!という方もいたということです。
あえて記録に残されていたという点で、当時としては少し毛色が変わった様子だった可能性も無きにしもあらずでしょうか。
戦国時代にはどんどん死亡していた家臣達も、太平の世では成人までの生存率が低い時代とはいえ、多くの子息たちが生きのび人数が増え、いわゆる役職が飽和状態となっていました。
それを解消するための苦肉の策として今では考えられないようなお役目も生まれており、例えば厠に待機して殿様が排泄を終えるとすかさずお尻を拭くお役目とかもあったのだそうです。
このような時代ゆえに、身分が高い方ほど排泄に関する羞恥心が薄い傾向があったのかも知れません。
トイレ事情だけは現代が一番良いと思えるエピソードです。
排泄物はお持ち帰りで運搬
大名行列の一員として荷物を運ぶ人足(にんそく)の苦労は、運ぶ荷物の重さや歩行距離の長さだけではありませんでした。
やはりと言うべきか、この時代特有の事情、殿様の排泄物を人目にさらさないよう配慮されたことから、江戸や国元など目的地までの道中ずっと運び続けていたようです。
携帯トイレと言うべきおまるは、腰かけて使う洋風な仕様の木箱で、使用前に迅速に砂を敷き詰め使用後に受け取ると再び砂と共に樽詰めにし目的地に到着するまで運ばれていました。
宿泊先の本陣でも雪隠ではなく携帯トイレで用を足していた様子が、邸宅を本陣として貸し出していた人物の記録として残っています。
当時の人が拝見しても、相当に大変な事だなあと感じいる様子が伺えます。
はあ、受け渡しも運ぶのも相当に大変そうで…。
海路では船上からおまるごと廃棄
海路では、道中に排泄物を廃棄しても人目にとまる心配はありません。
そのため、あらかじめ黒塗りのおまるが沢山準備されており、周囲を屏風で囲った場所で用を足し終えると、おまるごと海に廃棄されていました。
陸路で排泄物が運搬され、それに伴うおまるの手入れや労力を考えると海路はあっさりしたものです。
それでも海路より陸路の街道を行く魅力が、この時代にはあったのです。
おまるごと廃棄というのに本音が現れているよね。
以上が、参勤交代にまつわる大名行列のトイレ・お風呂事情でした。
この時代には外国から派遣された使節も日本の様子を見聞し記録を残しているのですが、整備され整然とゴミも落ちていない街道の様子に驚いていたようです。
ただし、その街道の両脇に広がる畑に使用されていた“肥え”の強烈な臭いが物凄かったとか。
今の日本のトイレ事情は、長く続いていたこれの反動なのでしょうか。
