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大名行列に隠された徳川家光の願い(狙い)

1623年から1651年まで、江戸幕府の征夷大将軍を務めた3代将軍徳川家光が制度化したのが、参勤交代です。

1615年に初代将軍徳川家康が、2代将軍徳川秀忠の命という形で発布した法令の武家諸法度を、1635年に改訂し参勤交代が制度化されます。

3代将軍徳川家光はどんな狙い、または、どんな願いを込めて参勤交代を制度化したのでしょうか?

本記事では、徳川家光が参勤交代の大名行列に込めた狙いや願いについて考察し、徳川家光の人物像や、功績についてもまとめます。

目次

江戸幕府3代将軍徳川家光とはどんな人だったのか?

江戸幕府3代将軍徳川家光は、1623年8月23日に征夷大将軍に任命され、自らを生まれながらの将軍であると称したと言われる名将です。

祖父の徳川家康、父の徳川秀忠と偉大な功績を残した親族の元、負けじと多くの施策を行い、江戸を太平の世へと導きます。

そんな徳川家光の人生を、垣間見ていこうと思います。

誕生から将軍就任まで

1604年7月17日に、2代将軍徳川秀忠の次男として誕生します。

母は、浅井長政と織田信長の妹であるお市の方との間に生まれてお江の方で、世継ぎとして育てられます。

幼少の頃は、病弱で容姿も美麗ではなかったと言われ、弟の国松が誕生すると父母の愛情は国松に向いたと言われています。

乳母である福の訴えもあり、祖父の家康が家光の世継ぎが決定したとの逸話があります。

1620年には元服を済ませ、徳川家光を名乗ります。

将軍就任後の治世

1623年7月3日に伏見城にて将軍宣下を受け、正式に江戸幕府3代将軍となった家光は、1632年に父秀忠が亡くなるまでは、父と共に幕政に携わります。

秀忠の死去後、改易・転封や幕政の改革に着手し、参勤交代を義務付ける規定を武家諸法度に加えます。

家光の代までに取られた一連の政策は、武断政治と言われ、武力を背景に改革を推し進められていきました。

家光がとった政策により、幕府基盤は安定し、その後の飢饉や中国大陸での清の進出の中でも体制の立て直しに尽力します。

1650年には病に倒れ、将軍職を息子の家綱に代行させ、1651年に48歳で亡くなります。

徳川家光が定めた参勤交代の大名行列

1635年に武家諸法度を改訂し、参勤交代を制度化した徳川家光ですが、その理由に関してはさまざまな意見があります。

この参勤交代の大名行列が定められた理由に関して、2つの視点から考察してみます。

参勤交代の大名行列の狙いとは?

参勤交代が定められたことで、各大名は妻や子を人質として江戸に住まわせることになります。

また、所領と江戸とを大名行列を組んで、行き来することになり、多大な費用が費やさられることになります。

徳川家光の時代は、まだ武力を背景に、各大名を抑え込んでいる時代でしたが、力をもった大名が反乱を起こさないともいえません。

そんな大名たちに、参勤交代で大名行列を組ませ、多大な費用を遣わせることで、幕府に逆らう力を削ぐ狙いがあったのではと言われています。

参勤交代の大名行列に込めた願いとは?

一方で、参勤交代の大名行列が、いつしか見栄の張り合いのように、無用に華美になっていく傾向がありました。

各藩が財政的に破綻し、そもそもの軍役を果たせなくなっては本末転倒であると、大名行列の制限も課しています。

大名の力を削ぐことが目的ではないのだとしたら、どんな願いが込められていたのでしょうか?

江戸に参り、将軍の下で勤めに励むことで忠義の心を磨かせていたのではないかと考える方もいます。

戦働きでの奉公ではなく、治世の世の奉公の形を、家光は目指していたのかもしれません。

徳川家光の主な政策

3代将軍として、治世へと導いた徳川家光は、参勤交代の義務化のほかにも、数々の政策を実行しています。

ここでは、徳川家光の主な政策を紹介していきます。

役職の整備

幕府の役職の整備を行い、あいまいだった権限を整えました。

具体的には、老中、若年寄、奉行、大目付などの役職を定め、将軍をトップとする組織を明確化しました。

個の力から組織の力へと江戸幕府を進化させたのは、家光の功績が大きいでしょう。

大名の改易・転封

改易とは、大名を平民に落とすことを指し、転封とは、領地を別の場所へと変えることを言います。

自らの権力を誇示するために、落ち度のあった大名に対して、特に外様大名に対して、罰を与えることを行いました。

キリスト教の弾圧と鎖国

キリスト教は、家康の時代から弾圧されていましたが、家光の代になると強化されます。

キリスト教の布教により、侵略の恐れや、思想の対立を生むと考え、鎖国が導入されます。

キリスト教の弾圧の象徴とも言える島原の乱は、家光の時代のできごとです。

田畑永代売買禁止令

寛永の飢饉といわれる天災が、1641年から1642年にかけて日本を襲います。

困窮した農民は、目先の資金を得るために田畑を売ってしまい、ますます貧しくなってしまいます。

この状況を解決するために、田畑永代売買禁止令を制定し、貧しさの連鎖を断ち切りました。

まとめ

ここまで、徳川家光の人生や功績についてまとめ、家光が込めた参勤交代の大名行列に対する狙いや願いについて考察しました。

約300年続く江戸幕府は、初代将軍徳川家康の存在が大きく、家光が陰に隠れがちですが、治世の世に導き、礎を築いたと言っても過言ではないでしょう。

乱世が終わり、治世への導いた徳川家光の手腕は、厳しさと優しさの両方を上手く使っていたのではと考えます。

そう考えると、参勤交代の大名行列に込めた思いは、狙いと願い、両方あったのかもしれませんね。

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