長らく国民に愛されていた時代劇と言えば、水戸黄門ではないでしょうか。
黄門様をはじめ、御一行を演じる役者さんが何度も入れ替わりながら、長年に渡り人気を博しました。
世を忍ぶ仮の姿で諸国を漫遊し、行く先々で悪人を懲らしめていくストーリーに、何度もスカッとさせてもらいました。
そんな黄門様ご一行が、旅の途中で大名行列に遭遇するシーンもありましたが、実際、そんな場面があればどうだったでしょう?
今回は、水戸黄門こと徳川光圀に焦点をあて、もし徳川光圀が大名行列に遭遇したら、どのようなふるまいをしたであろうか考察していきます。
徳川光圀(別名水戸黄門)とは?

徳川光圀は、江戸時代前期の大名で、江戸幕府初代将軍徳川家康の孫にあたります。
父親は徳川家康の十一男である徳川頼房で、水戸藩の初代藩主です。
江戸幕府の血筋に生まれた徳川光圀が、どんな一生を歩んだのか、まとめていきます。
徳川光圀(別名水戸黄門)の幼年時代
1628年に徳川頼房の三男として生まれた光圀ですが、実は、頼房は家臣に対して堕胎を命じていたそうです。
というのも、頼房はまだ正室を迎えておらず、光圀の母である高瀬局は、正式な側室でもなかったためです。
家臣が機転を利かせて、光圀は誕生することになりますが、なぜ堕胎させられようとしていたかは未だに不明です。
その後、光圀は1633年に世子に決定し、1634年には当時の将軍徳川家光に拝謁しています。
さまざまな伝記史料によれば、光圀は才能あふれる人物だったようで、逸話が記されています。
徳川光圀(別名水戸黄門)の藩主時代
1636年に元服した光圀は、派手な格好で不良仲間と出歩くようなやんちゃな側面があったようで、傅役から自制を求められています。
18歳になると、司馬遷の「史記」に記されている伯夷伝に感銘を受け、そこから勉学に打ち込むようになります。
1657年には、後の水戸藩の大事業となる「大日本史」の編纂を開始します。
1658年の妻の死を乗り越え、1661年に水戸藩の藩主となる。
就任直後から、積極的に藩の運営に携わり、水道事業や寺社改革、明から朱舜水を招いての学問の普及、蝦夷地探検など、さまざまな成果をもたらす。
徳川光圀(別名水戸黄門)の隠居時代
1690年になると、幕府より正式な許可が出て隠居し、藩主を養嗣子の綱條に譲る。
隠居後は、近代的な考古学が始まる前から、古墳の発掘調査を行うなど、日本の歴史に対して調査を行っています。
光圀が命じて行った発掘調査は、日本初の学術的着想による発掘とも言われています。
1694年には、5代将軍綱吉の命を受けて江戸にのぼります。
その際に、高慢な態度を見せるようになった重臣の藤井紋太夫を刺殺する事件を起こす。
理由の詳細は不明だが、このような史実が、悪を懲らしめる水戸黄門像に繋がったのかもしれません。
1701年に、亡くなります。
なぜ別名水戸黄門?
徳川光圀が水戸黄門と呼ばれている理由は、当時、庶民が位の高い方の実名を口にするのがご法度だったためです。
徳川光圀の藩の名前である「水戸」と、光圀の官位である権中納言の別名である「黄門」をつなげて「水戸黄門」と呼ばれるようになりました。
常陸水戸藩とは?

常陸水戸藩は、現在の茨城県中部から北部を治めていた藩です。
徳川家康の十一男である頼房を初代藩主とする徳川御三家のひとつです。
徳川御三家のうち、水戸藩は唯一参勤交代を行わなくてもよい藩でした。
万が一の際には、将軍に成り代わり将軍目代として、幕府のかじ取りを行う役目を担っていたと言われています。
徳川光圀(別名水戸黄門)が大名行列に遭遇したら
ここまで徳川光圀(別名水戸黄門)の生涯と、光圀が藩主を務めていた水戸藩についてまとめました。
参勤交代が不要であることから、光圀自身が大名行列を為す機会は、他の大名に比べて少なかったかもしれません。
また、実際に、大名行列に遭遇して、どのようなふるまいをしたのかという記録は見受けられませんでした。
そこで、徳川光圀の官位などから、もし大名行列に遭遇したら、どのようなふるまいをしていたか考察します。
相手が将軍家の場合
将軍家の大名行列に、徳川光圀が遭遇した場合、官位は将軍家の方が上になります。
将軍家が大名行列を行う際には、「下に~、下に~」の掛け声と共に周囲の人たちに土下座を行わせていました。
この点から考えると、徳川光圀が将軍家の大名行列に遭遇した場合、道の端により土下座をしたであろうと考察されます。
相手が御三家の場合
相手が御三家の場合は、徳川光圀も御三家の藩主にあたるため、同格になります。
同格の場合には、互いに道を譲り合うという風習があり、それに応じて行列が行われたと考えられます。
よって、徳川光圀が土下座をするということは考えにくく、道を譲り合いながらすれ違っていたであろうと思います。
相手が上記以外の大名の場合
将軍家、御三家以外の大名であれば、徳川光圀からみると格下となります。
その場合、相手の大名が徳川光圀に道を譲る形をとったであろうと考えられます。
大名も、駕籠から降りて、徳川光圀に挨拶をしにいったでしょう。
ただ、大名行列を先行するものが、行く先に徳川光圀を見つけた場合、いらぬトラブルを避けるために道を変えることも想定されます。
まとめ
ここまで、徳川光圀(別名水戸黄門)が大名行列に遭遇したらどうなるかを考察しました。
時代劇の水戸黄門では時折見かけるシーンで、世を忍ぶ仮の姿の黄門様が道をあけ、大名を観察するようなそぶりをみせることもありました。
実際は、それぞれの官位の上下がある為、その作法に従い対応していたであろうと考えられます。
大名行列と時代劇の主人公のやり取りを、このように考察するのは歴史好きとしては面白いですよね。
