大名行列は、参勤交代における江戸と各藩との間を往来する際に見られるものであり、その性質上、様々なものを持ち運んでいました。
この記事では、そういった品々を解説していきます。
大名行列の武具は? 鉄砲、槍、弓などの武具
参勤交代は、本来は軍役の性格を持っていました。ゆえに、大名行列にも武家としての武具の備えはなくてはならいものでした。
大名行列の「鉄砲」
戦国時代に鉄砲は短期間で足軽の武装の一つとして普及しましたが、大名行列にも、鉄砲を備えた足軽たちが参加していました。ただし、幕末の文久の改革以前は、江戸に鉄砲を持ち込む際には「鉄炮手形」と呼ばれる一種の証明書が必要でした。江戸と各藩の間にある関所では、まず、鉄炮手形が偽造では無いかをチェックし、出発地と目的地、所有者、数などが鉄炮手形に記載されたとおりなのかもチェックしていました。こうやって江戸に不正に鉄砲が流入してしまうことを防いでいたのです。これは治安対策の一つでもありました。
ただし、江戸から鉄砲を地方に持ち出す際にはこれほどの厳重なチェックは行われていませんでした。
大名行列の「槍」
槍は戦国時代における日本の軍隊において、主要な武装であり、また武家の象徴でもありました。大名行列において槍を持ち運んでいたのは身分としては中間(ちゅうげん)という武家奉公人であり、役割としては槍持ちと言います。また、徳川幕府は、槍の色や鞘の形をその大名家の家格に応じて決めていました。つまり、槍持ち達が持つ槍の色や鞘の形状を見れば、どの大名家の大名行列かを判別することが可能でした。
特に朱柄の槍はその功績を表わすもので、厩橋潘(前橋藩)の藩主の家であり、酒井忠恭の代からは姫路藩の藩主の家となった酒井家は、朱柄の槍を二本も使うことを許可されていました。大名行列の際に朱柄の槍を二本も使うことが出来たのは、酒井家の他には土井家など数家に限られており、大変な名誉でした。
また、「寛政の三忠臣」の一人、本多忠籌(ただかず)は江戸城に登城する際の行列において槍の飾りに赤玉を使うことを許可されており、この飾りは本田赤玉とも呼ばれました。本田赤玉は朝日に照らされると美しく映え見事なものだったと言います。
大名行列の「弓」
弓もまた大名行列において足軽が備えていた武装の一つでした。鉄砲が出てくると弓は廃れたのではないかと思っていらっしゃる方も多いと思いますが、鉄砲が登場して以降も戦国期においては弓は主要な武装の一つであり続けました。江戸時代は大規模な戦はほとんどない平和な時代でもあったので、武装の更新は西欧諸国と比較するとほとんど行われておらず、大名行列においても持ち運んでいた武装の一つでした。

物を運ぶために使われていた用具・道具は? 長持・対挟み箱などの用具・道具
大名行列においては、当然のことですが、武装だけを持ち運んでいたわけではありません。様々なものを持ち運ぶための道具に詰めて運んでいました。
大名行列の「長持」
日用品などを入れて持ち運んでいた、蓋つきの長方形の長い箱です。上部に金具があり、そこに長い棒を挿し込んでその両端を二人の中間などが担いで持ち運んでいました。埃避けや日除けのために家紋入りの大きな布を被せており、長距離の移動のによって汚れたりしないように配慮されていました。
大名行列の「対挟箱」
主に文書などを入れて運ぶための道具が対挟箱(ついはさみばこ)です。上部に金具があり、そこに棒を挿し込んで担いで運びます。文書の他には衣類なども入れてありました。また、日用品などを入れた両掛け(一本の棒に両端に二つの箱が付いている)の挟箱もありました。
大名行列の「沓籠」
現代人からするとかなり変わったように見えるものを入れて運ぶための道具が沓籠(くつかご)です。江戸時代には現代の競走馬がしているような蹄鉄(馬の蹄を保護するための金属製のU字型保護具)がありませんでした。このため、江戸時代では、馬に長距離を移動させる際には草鞋(わらじ)を履かせていたのです。その馬のための草鞋を沓(くつ)と言い、交換用の沓を入れて持ち運んでいたのが沓籠です。

大名行列の持ち物
衣類
参勤交代は、江戸に行って大名が将軍に御目見得すればそれで自分の領地に帰ってもいいというものではありません。一年間は江戸に滞在することになるので衣類は必須でした。武家として対面を保つためには様々な衣装が必要とされるので、着替えは欠かせません。
文書
先述した鉄炮手形など、旅をするにも様々な文書が必要な時代でしたので、当然、こういった文書も大切に持ち運ばなければなりません。
以上、大名行列において、人々が持ち運んでいた武具、道具・用具、持ち物について解説しました。様々な物を持ち運んでいたことを御理解頂けたと思います。
