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妻や子は江戸で人質にとられた?大名行列で実際にあったことは

江戸時代の各大名家の大名たちには、大名たちが国許に帰るときでも正室と世継ぎは江戸に残していかなければなりませんでした。この記事では、江戸に残すことになっていた正室と世継ぎについてと大名たちの実情を説明します。

目次

妻や子は江戸で人質に? そのルーツ

参勤交代のルーツを遡っていくと、鎌倉時代における鎌倉幕府と御家人(注1)との「御恩と奉公」と呼ばれる関係性にいきあたります。

鎌倉幕府は御家人たちに本宅安堵・所領安堵(注2)といった御家人たちが持っている土地を治める権利を認める「安堵」と新たに土地を与える新恩給与という二つの「御恩」を与え、その代償として、御家人は軍役などの「奉公」を鎌倉幕府に提供するというのが「御恩と奉公」ですが、この奉公のなかに番役と呼ばれるものがありました。

番役とは、鎌倉時代においては軍役の一種であり、朝廷の機関を警護するための武力を提供する奉公です。

特に、朝廷がある京都と幕府がある鎌倉を警護するために地方の武士に武力を提供させるのを「大番役」と呼びます。この制度は室町時代の初期まで続きました。そもそも鎌倉幕府には、三年に一度、御家人が鎌倉に参勤する制度もありました。

神護寺所蔵、絹本着色伝源頼朝像。彼が開いた鎌倉幕府の制度に参勤交代のルーツがある。ただし、この像は足利幕府初代将軍足利尊氏の弟、足利直義の像であるとの説もある。

こういった制度は戦国大名たちにも受け継がれていきます。戦国大名たちは従えた武士たちを本拠の城下町に集住させました。安土・桃山時代にも織田信長が服属させた大名に安土城城下に屋敷を与えており、豊臣秀吉もまた大坂城、聚楽第、伏見城などの城下にて服属させた大名に屋敷を与え、大名たちの妻子を与えた屋敷に住まわせていました。

これが参勤交代の原形となり、江戸幕府を開いた徳川家康も豊臣秀吉にならって、江戸城城下にて大名たちに屋敷を与えました。当時の大名たちは豊臣政権時代を知っています。彼らは、徳川家への忠誠の証として正室と世継ぎ、重臣たちの妻子(注3)を人質として江戸に残すようになります。つまり、各大名家は中世の証として正室と世継ぎ、重臣たちの妻子を人質として差し出したのです。

また、当初は、江戸への参勤も大名たちが自発的に行っていました。これが制度化したのが江戸時代の参勤交代であり、正室と世継ぎを人質として江戸に残すのも、当初は、大名たちが自発的にはじめたことです。ただし、1635年には譜代大名で領地に正室と世継ぎを置いたままにしている者に対して、江戸に移住させるように幕府は命じています。

こういった江戸幕府が大名とその重臣から妻子を人質にとる制度を大名証人制度と言います。

江戸で育った大名に実際にあったことは?

上記に説明しましたように、江戸時代の大名たちは、初期を除けば、江戸育ちの江戸っ子でした。彼ら江戸育ちの大名にとって、治めている藩は国許ではありますが、大名行列を仕立て、御国入して”帰国”するまでは、見たこともない土地でした。

つまり、江戸時代の大名にとっては、江戸こそ故郷と言えるという側面があります。

江戸幕府八代将軍吉宗に仕えた荻生徂徠は「大名たちは江戸育ちなので、江戸を故郷と思っている」という主旨のことを、その著書『政談』書き残していますし、江戸幕府の公式の史書である『御実紀』(『徳川実紀』とも)には、「妻子も江戸にいるので、大名たちは参勤交代で江戸に来ることを楽しみにしている」という主旨の記述があります。

浅野長矩。赤穂事件で有名な浅野内匠頭。吉良義央(吉良上野介)が田舎大名と罵ったという話が『赤穂義人録』に残るが、浅野長矩も江戸育ちである。

これは、当時の大名たちにとって、参勤交代は子供の頃から慣れ親しんだ江戸に”戻ってくる”という意識があった実情を窺わせる記述であり、領地にいるよりも江戸にいたほうが安心できるという逆転現象が実際におきていたことを示すものです。

以上、江戸に残すことになっていた正室と世継ぎについてと大名たちの実情を説明しました。

注1 鎌倉幕府における御家人は鎌倉殿(鎌倉幕府の棟梁)と主従関係を結び、従者となったもののこと。

注2 開発した土地を所有することを保証するのが所領安堵、堀などで区画した屋敷(畑や田を含む)である本宅を保証するのが本宅安堵。

注3 重臣の妻子まで人質にだしたのは、大名の妻子だけを人質に出しても、領地で下剋上が起きて大名が入れ替わったときに人質としての機能を果たさなくなるため。1665年に、三代将軍家光の異母弟保科正之の提言により、重臣の妻子を人質に出すのは廃止された。

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