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幕府が定めた大名行列の決まり!石高や格によって決められた内容とは?

参勤交代時の大名行列には、家格や石高などによる規定がありました。この記事では、そういった規定を説明します。

目次

見栄を張るためのもの? 派手になり過ぎた大名行列

参勤交代の本来の目的は軍役奉仕でした。諸大名が幕府に一定の軍事力を提供することが目的だったのです。また、将軍に会わせることで将軍への忠誠と統制を確認するものでもありました。

ところが、平和な時代が長く続くと、参勤交代は軍役奉仕という本来の目的から変質していきます。大名行列は当初は行軍の性質を持っていましたが、これが諸大名の威信を誇示するものへと変容してしまいます。服装なども華美なものになり、規模も大きくなっていきました。

こういった問題は三代将軍家光の時代には既に顕在化しており、寛永十二年(1635年)の武家諸法度・寛永令には、

「一、大名・小名在江戸交替相定ムル所ナリ。毎歳夏四月中、参覲致スベシ。従者ノ員数近来甚ダ多シ、且ハ国郡ノ費、且ハ人民ノ労ナリ。向後ソノ相応ヲ以テコレヲ減少スベシ。但シ上洛ノ節ハ、教令ニ任セ、公役ハ分限ニ随フベキ事。」

とあります。この武家諸法度・寛永令は参勤交代を制度化したものですが、「従者が多くなりすぎている。費用が掛かり過ぎて人民への負担となってしまうので身分相応の規模にしろ」とも言っているわけです。つまり、こういった指示をしなければならないほどに無駄に派手に、かつ大規模になりすぎていたということでもあります。

金山寺所蔵、岡山県立博物館に寄託されている徳川家光像。武家諸法度・寛永令を制定。

ちなみに、「参勤交代の目的は、諸大名に経済的負担を強いることで、諸大名を弱体化させて反乱を起こせないようにすることだった」という説があり、かつては学校でもそのように教えられていた人が多かったのですが、この説は結果論でしかありません。

参勤交代は、制度化される以前は諸大名が自主的に行っていましたし、本来の目的も上記したように軍役奉仕であったので、軍役が果たせなくなるほどに諸大名が弱体化することを幕府は望みませんでした。ですから寛永令にも諸大名に大名行列にかかる費用を抑えることを指示する条文があるわけです。

規制される大名行列! 幕府による石高に基いた規制

八代将軍吉宗はこういった派手・大規模になりすぎていた大名行列に規制をかけました。「人数を多くし過ぎるな」と指示しても効果が無かったので、具体的な規制を掛けて大名行列の規模を抑制しようとしたのです。

徳川記念財団所蔵の徳川吉宗像。大規模な大名行列を規制しようとした。

吉宗によるこの規制は、石高毎に大名行列で連れていける人数の上限を定めるものでした。

一万石の大名ならば、騎乗する武士は4人まで。足軽は20人まで。中間は30人まで。

五万石の大名ならば、騎乗する武士の数は7人、足軽は60人、中間は100人まで。

十万石ならば、騎乗する武士の数は10人。足軽は80人。中間は最大150人まで。

二十万石以上ならば、騎乗する武士の数は最大20人、足軽は最大130人、中間は最大300人まで。

このように大名行列の規模を抑制して無駄な費用を削減させる狙いがありました。

ただし、吉宗自身がこの規制の効果を疑っていました。

吉宗自身が紀伊藩の藩主だった頃に大名行列の人数の削減を試みたのですが、上手くいかずに結局は元の人数に戻ってしまったという経験をしていたので、諸大名たちが人数を減らそうとしても結局は上手くいかないのではないかと考えたのです。

大名家の格式による使えるモノの違い

また、大名行列時に使う道具についても、大名家の格式によって差異がありました。

例えば、朱柄の槍です。厩橋潘の藩主、後に姫路藩の藩主となった酒井雅楽頭家には朱柄の槍を二本も使うことが許可されていました。大名行列の際に朱柄の槍を二本も使うことができるのは名誉なことであり、酒井家の他には土井家など数家に限定されたことでした。

挟箱(江戸時代の武家が用いた旅行用品の一つ)にもそれぞれの家に応じた格式があり、加賀藩、薩摩藩、仙台藩などの大藩、足利将軍家の支族であった喜連川家、御三家、親藩などは金紋先箱(金で挟箱の蓋の左右に紋所を書いている)と呼ばれる格式の高い挟箱を使っていました。

以上、大名行列における家格や石高などによる規定を説明しました。

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