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大名行列の歩き方の意味と、ゆっくり進む理由!スピードはどのくらい?走ることはあった?

参勤交代時の大名行列では進むスピードを使い分けていました。この記事では大名行列の進み方について説明します。

目次

常にゆっくり進むわけではない? 走るのに近い意外な大名行列のスピード

参勤交代時の大名行列は、本来の目的は幕府への軍役奉仕でしたが、平和な時代が続くと、各大名家がそれぞれの家の威信や格式を示すためのものへと性格が変わっていきます。

それぞれの大名家の威信や格式を示すためには、人がいるところではその人達に大名行列を見てもらわなければなりません。ですので、宿場町では威儀を整えながらゆっくりと進みます。

また、宿場町でゆっくりと進むのには荷物の積み替えや伝馬(注1)の調整のためという実務的な事情もありました。

歌川広重の「東海道五十三次・關」 著名な宿場町である関宿を描いたもの。

では、宿場町以外ではどうだったかというと、日数を少しでも短縮するために、速足で移動していました。旅が一日長くなれば、その分だけ費用が嵩むので、少しでも経費を節約するために速足で移動する必要があったわけです。

極端なほどに速い移動も記録されています。加賀藩三代藩主前田光高(注2)の大名行列は本来ならば、12泊13日掛かる旅程を、6泊7日で駆け抜けました。本来の半分に近い程度の日数で江戸まで移動したわけですから、大変な強行軍だったことがわかります。

ちなみに、江戸入、あるいは藩主の御国入の際には、礼服に着替え、威儀を整えてゆっくりと進みました。先述したように、大名家の威信や格式を示す目的もありましたから、江戸や国許では、威信や格式を誇示するためにもゆっくりと進む必要があったわけです。

旅費が尽きてしまった大名

加賀藩三代藩主前田光高のように、強行軍を行って日数を短縮した事例は上記に紹介しましたが、なかには、財政窮乏のために旅の途中で立ち往生してしまった大名もいます。

それが、出羽庄内藩七代藩主酒井忠徳でした。庄内藩は転封が多かった譜代大名では例外的に転封がなかった数少ない藩で江戸時代を通じて酒井左衛門尉家(注3)が藩主を務めました。酒井忠徳はその七代目になります。

譜代大名の重鎮として幕府の要職を務めることもある酒井左衛門尉家なのですが、それだけに出費も多く、庄内藩は財政難に悩まされていました。

庄内藩初代藩主酒井忠勝 庄内藩は慢性的な財政難に悩まされた。

ところで、大名の嫡男は江戸で育ちます。当然、酒井忠徳も江戸育ちなのですが、庄内藩六代藩主の酒井忠温が36歳で亡くなり父の跡を継いで庄内藩7代藩主となった際にその事件はおきました。

先述したように、庄内藩は慢性的な財政難に悩んでいました。それも大名行列の費用も即座には用意できない程の窮乏ぶりでした。しかし、父の跡を継いで藩主になったわけですから、忠徳は庄内藩に御国入する必要があるわけです。

そこで、取りあえず、江戸を出立して庄内藩に向かい、足りない旅費は国許が用意して旅の途中で酒井忠徳の大名行列に届けるということにしました。

ですが、旅の途中で旅費が尽きたのに、国許である庄内藩からは旅費が届かないという事態に陥ってしまいました。庄内藩の重臣は忠徳に旅費が尽きたことを報告しますが、忠徳はその情けなさを嘆いたと伝わっています。

庄内藩の事例は極端な例ですが、各大名家が経費削減の為に宿場町以外では速足で駆け抜けていたことの切実さが伝わるエピソードでもあります。

以上、大名行列の進み方について説明しました。

注1 幕府の公用を果たすために馬を宿場で乗り換える必要があった。この馬のことを伝馬という。

注2 前田利家の孫、母系では徳川家康の外曾孫であり、徳川家光も母方の叔父にあたる。美男子であり、文武に優れた人物であったと伝わる。

注3 徳川四天王の筆頭として有名な酒井忠次の家系。庄内藩初代藩主酒井忠勝は忠次の孫。

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