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大名行列にまつわる雑学・豆知識・ネタ・トリビア特集!

参勤交代時の大名行列では現代人の感覚からすると変わったことがったり意外な事情があったりします。この記事ではそういった大名行列にまつわる雑学・豆知識・ネタ・トリビアを紹介します。

目次

大名行列の雑学・豆知識・ネタ・トリビア

大名行列のトイレ事情

大名とて人間。たとえ参勤交代の途中であろうが、出るものは出るわけです。そういった大名たちのトイレ事情は藩によっても対応が様々に異なっていました。

御三家筆頭の尾張藩、その二代藩主である徳川光友は、専用の折り畳み式携帯トイレを挟箱に入れて持ち運んでいました。用を足すときは、幕を張って人目を遮り、排泄物には自ら土を掛けて処理していました。

加賀藩では携帯用おまるを持ち運び用を足すときに対応していました。

各藩のなかには二~三里ごとに休憩用の小屋を設置して用を足すという方法を採っていたところもありました。

なかには、抽斗箱を長持ちに納めて持ち運び、本陣(この場合は宿泊先)のトイレにそれを設置。乾いた砂を敷いておき、大名がトイレを使用した後は……なんと、樽詰にして持ち帰ったという話もあります。

参勤交代しない大名達

江戸時代の大名たちの大半は参勤交代を行っていましたが、例外的に参勤交代が義務となっていない大名もいました。有名なのが、御三家の水戸藩。水戸藩の藩主は江戸定府であって参勤交代しません。また、水戸藩の御連枝である守山藩、常陸府中藩、常陸宍戸藩も江戸定府ですし、水戸藩の御附家老(注1)である中山家や紀州藩の御附家老である水野家にも参勤交代の義務はありません。

譜代大名にも江戸定府の大名が多数います。その全てを挙げると煩雑に過ぎるので、特殊な事情があって江戸定府になっている潘を挙げますと柳生藩の柳生家がそうです。剣聖柳生宗矩(注2)からはじまる柳生藩の代々の藩主は将軍家の剣術指南役であることから江戸定府となっていました。

外様大名に江戸定府の大名がいますが、(譜代大名の江戸定府の大名もそうですが)内分分地や新田分地(注3)で成立した小さな藩であることが多いです。

難所・大井川

「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と馬子唄に歌われたほどの難所、大井川。大井川には橋が建造されていなかったために、大井川を渡るためには川渡しに多額の費用を払う必要がありました。10万石の大名でも40両ほどはかかったと言います。

歌川広重『東海道五拾三次之内 嶋田 大井川駿岸』 大井川は東海道最大の難所である。

鳥取藩では大井川を越えると飛脚で江戸の藩邸に知らせていましたし、紀州藩では大井川を越えるとその日の夜では藩士に酒が振舞われたと言いますから、当時の大井川を渡る苦労が偲ばれます。

ちなみに、東海道の島田宿と金谷宿の間にある大井川に橋がなかった理由については、江戸防備のためにあえて橋を造らなかったのだ、という説明がされることもありますが、大井川は大きな川でしかも急流にして洪水も多いので、技術的、経済的に橋の建築は困難であったと考えるのが妥当です。

大名行列を横切っても許される職業

輸送と通信を担う飛脚、出産になくてはならない産婆は大名行列を(列を乱したりしない限りは)横切ることを許されていました。

大名じゃないのに参勤交代? 交代寄合

大名では無くても参勤交代を義務付けられていた高位の武士もいました。交代寄合と呼ばれる旗本たちがこれに該当します。

交代寄合は旗本の家格の一つであり、旗本でありながら江戸定府ではなく、領地と江戸を参勤交代で往復することになっていました。こういった交代寄合は伺候席(注4)も帝鑑間詰や柳間詰であって大名達と並んで将軍に拝謁する順番を待っていたことになります。

交代寄合は外様大名の一族が多く、石高も旗本としては高い3000石以上のものが多かったのですが、なかには120石の岩松家や無高の米良家のような家もあります。

このうちの岩松家は、鎌倉時代末期から南北朝初期にかけて活躍した新田義貞で有名な新田氏であり、120石という小禄でありながら参勤交代をしなければならないので、猫の絵を描いて売っていたりもしています。この猫の絵はネズミ除けに大きな効果があると信じられ、上州や信濃の養蚕農家では大いに喜ばれたと言います。また、狐憑き封じの除札を発行していたりもします。岩松家の当主には不思議な霊験があるとされ、拝謁すると狂気がおさまり、使った草鞋は狐憑きを封じ込め、下げ渡した食べ物にも熱を下げる効能があると信じられていたとも言います。

また、15世紀初めごろの岩松家の当主である岩松満純は新田義貞の三男である新田義宗の落胤とされており、このこともあって、明治時代に新田氏嫡流であると認められて叙爵されて華族となっています。(この時代には新田に改姓しているので新田男爵家となった)

これには幕末期に「先祖である新田義貞の勤皇の志を継ぐ」として新田勤皇党を組織して官軍に加わったことも家族となれたことの背景にあります。

参勤交代の途中で急死!!

参勤交代の途中で急死してしまった大名もいます。佐土原藩十代藩主島津忠徹は、1839年の参勤交代中の近江は草津の草津宿にて病(癪と伝わる)に倒れて死亡してしまいました。島津忠徹は幕府に誰を後継者とするのかを届け出ていなかったのでこのままでは御家断絶、佐土原藩はお取り潰しになってしまいます。

そこで、本来は草津宿に一泊二日の予定でしたが77日間滞在し、その間に嫡男の島津忠寛を後継者として認めてもらう手続きを進めて何とか事なきを得ました。

島津忠寛。島津忠徹の急死後にその跡を継いだ。

この手続きに助力してくれた草津宿本陣の当主田中七左衛門(注5)に対して、佐土原藩は家紋入りの裃と金300両を贈ってその恩義に報いました。

以上、大名行列にまつわる雑学・豆知識・ネタ・トリビアでした。

注1 将軍の親族などを大名に取り立てる際に、特に将軍の命によってその大名の家老となった家臣のこと。

注2 全日本剣道連盟の剣道殿堂において別格顕彰とされている。別格顕彰には柳生宗矩の他には宮本武蔵がいるだけである。

注3 本家の表高を減らさないように本家の領内で分家に分知する方法。このうち新規開発した領地を分地する方法が新田分知である。

注4 大名・旗本が将軍に拝謁するために江戸城に登城した際に、将軍に拝謁する順番を待っていた控え席。大廊下席、大広間席、溜詰、帝鑑間席、柳間席、雁間詰、菊間広縁詰、菊間と種類があり、それぞれ家格によって分けられている。なお、御三卿は御控所に入る。

注5 島津忠徹が草津宿に長く滞在しているのは病気療養中のためとその死を偽装するための工作と交渉に尽力した。

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