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大名行列の想像図

参勤交代時の大名行列にはあちがちなイメージや想像図とは異なった実情がありました。この記事ではそういったありがちな想像図とは異なる実情を説明します。

目次

想像図とは違う? 大名行列の実情

大名を中心として華やかな行列を仕立てて国許から江戸まで移動する……というようなイメージを大名行列に持っている人も多いでしょう。

そのイメージも決して間違いではありません。平和な時代が長く続いたことにより大名行列は行軍的な性格から派手・華美なものへと変質していったので、「華やかな行列」であったのも間違いありません。

しかし、そういった「華やかな行列」で国許から江戸までをずっと移動していたわけでもありません。国許を出発する際には、国許に残る家臣たちもある程度はついていきますが、精々が城下町の外れまでです。

また供侍という形で行列に参加していた家臣たちもその藩の領域までしか参加しません。中間や小者も大半は引き返してしまいます。

例えば、出発時には500人の大名行列だったとします。ところがこの500人という規模が維持できるのは自藩の領内までで、半分ほどは引き返してしまうのです。そうすることで、旅費を削減することができます。

では、この大名行列が江戸に入るときにはどうなるか、というと、500人に戻っているのです。江戸直前に中間や小者を臨時で雇って行列の規模を大きくするわけです。

つまり、大名行列が皆さんの頭の中の想像図にあるような「華やかな行列」であるのは、国許を出発するときと江戸に入るときだけなのです。

先述したように大名行列は派手・華美なものになっていきましたが、これは諸大名が自身の威信・格式を誇示したかったからなのです。よって、人目のあるところ(国許・江戸)ではより派手な行列を仕立てますが、人目が少ない旅中では人数を減らして旅費を節約するのが合理的なためにこのような臨時雇いで人数を調節する方法が採られていました。

歌川広重 『木曽海道六拾九次之内 加納』 大名行列に道を譲る人々の姿が確認できる。

派手な大名行列が諸藩の財政を圧迫した? 実はもっと大きな出費があった!

参勤交代時の大名行列によって諸大名の財政が苦しくなってしまったという理解をしている人は多いと思います。

それも間違いではありません。小禄の交代寄合や小規模な潘の大名にとっては、行列を仕立てて江戸に行くのも負担になっていたのも事実です。

ですが、より財政を圧迫していたのは、江戸での出費なのです。

例えば、雲州松平家が治めた松江藩の明和五年(1768年)から六年の記録では、雲州松平家の支出の30%が江戸での出費。対して、参勤交代時の大名行列への支出は5%

参勤交代時の支出も決して軽いものではありませんが、江戸での生活費がより重い負担になっていたことがわかります。

彰考館徳川博物館所蔵の水戸藩初代藩主徳川頼房像。水戸藩の藩主は常に江戸で暮らしているので、水戸藩の財政は火の車。

大名は、嫌々、参勤交代をしていた? 実は多くの大名にとっては里帰り

また、「幕府から参勤交代を強制されていたので、大名たちは、渋々、参勤交代をやっていた」と思われがちですが、これも実情からかけ離れています。

参勤交代が制度化されたのは、三代将軍徳川家光の時代の武家諸法度・寛永令(1635年)からです。それ以前は、諸大名は自主的に参勤していました。

さらに大名証人制度により諸大名はその妻子を江戸に居住させておく義務がありました。つまり、大名家を相続する世継ぎは江戸で育っているわけです。ですので、「父親が亡くなって藩主を継ぐまで、自分の領地に行ったことが無い」という大名は珍しくありません。

よって、多くの大名にとって江戸こそが育った場所になるので、自分の領地との繋がり・愛着はむしろ薄かったりします。

こういった大名にとっては、江戸への愛着が自分の領土へのそれよりも上回るので、参勤交代で江戸に出てくることはむしろ楽しみだったのです。

以上、あちがちなイメージや想像図とは異なった大名行列の実情を説明しました。

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