大名行列はどこからどこまで移動した?
大名行列の出発地点はどこから?
参勤交代は様々な諸大名が江戸に出向きます。
関東地方の諸大名は移動日数が短いところで1日で来ているところもあれば、西国は1ヶ月~2ヶ月かかって来ているところもありました。
そのため、どこに自分の領地を持っているかで江戸にくるまでの距離(日数)に差がありました。
そして、参勤交代は諸大名が江戸に参内するため、出発地点は各藩の城が起点になります。
例をあげると以下のようになります。
- 加賀藩(前田家):金沢城
- 薩摩藩(島津家):鹿児島城
- 仙台藩(伊達家):仙台城
大名行列はどこに行く?(目的地・行き先)
前述の出発地点から他藩を経由して目的地である
江戸城まで行ってました。
他藩を経由して行くため、各藩の藩主はお出迎えやおもてなしをしなければならなかったというのもこの時代の特徴です。
特に大藩主など国力や権力を持っている大名が自分の藩に宿泊するときは、それ相応のおもてなしをしていました。
このように参勤交代は自分の藩をアピールするための一大イベントでした。
莫大なお金をかけて準備して、藩の威信をかけて行っていました。
それではどこからどこまで移動していたのか、代表的な藩の様子を紹介します。
諸大名の大名行列はどこからどこまで移動していたのか?
参勤交代の命を江戸から最も遠距離にある西の諸大名の中で、一番有名なのは「薩摩藩の島津家」です。
当時は徒歩や馬で移動するしかなかったため、当然行き先である江戸城までは相当な日数がかかります。
それでは薩摩藩はいったいどこからどこまで移動していたのか。
どのようなルートで江戸城まで赴いていたのでしょうか。
その様子を見ていきましょう。
薩摩藩の出発地点から行き先(目的地)までのルート
薩摩藩の移動ルートは440里(1716km)で、下図のように下関~大阪~尾張~小田原を通って移動していました。
こう見ると2ヶ月かかるのもわかりますよね。
そして、今は車や新幹線などが移動手段として有効ですが、当時は徒歩か馬しか手段がありませんでした。
加えて今より人が通れるほど道は整備されていません。
橋や道路が配置されていないところが多かったため、人足を雇って整備したりしていました。
江戸に滞在している時は、身の回りのものだけにお金をかけていたわけではありません。
道中でものを運んでもらう人件費など、今ではお金がかからないところに費用を割かなければいけませんでした。

上図はすべて陸のルートをたどっていくルートでしたが、薩摩藩など九州の大名は海路と陸路をあわせて移動したりもしてました。
その様子が下図に注目してみると、どのように移動していたのかわかると思います。
下図のように大きく長崎方面を通っていくルートや瀬戸内海を通っていくルートで行ったりもしていました。
その時の天候に応じてルートを変えたりして目的地まで行ってました。
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西の諸大名が船団を連れて瀬戸内海や九州を航海する姿は、自分の藩をアピールするには絶好の機会でした。
しかし、時代が進むにつれて海路よりも陸路を使っていく大名が増えました。
海路から陸路に変更した理由としては、海難事故への懸念でした。
当時は移り変わりやすい天候のせいで、海路で進んだとしても海で事故がおきるケースが後を絶ちませんでした。
海で事故が起きるまではいかなくても海が荒れたり、風が吹かなくて足止めをくらうケースもありました。
そして、海難事故が多発したことによって余計な出費が増えてしまったことも原因でした。
当時の船は「御座船」といって大型の船であったこともあり、天候によって船が倒壊や破損することが出費につながっていました。
莫大な費用をかけてまで多数の大型船を維持するのが負担になっていました。
御座船 (ござぶね)は、日本の歴史上、天皇・公家・将軍・大名などの貴人が乗るための豪華な船のこと。西洋でいう遊行用のヨットに相当する性格の船である。河川用のものは川御座船、海用のものは海御座船とも呼ぶ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%BA%A7%E8%88%B9
このようにして薩摩藩は陸路を選択して江戸城に参内するようになっていきました。
西国の諸大名の中で最も遠距離の薩摩藩がどのようにして移動していたのか。
その目的や行き先までわかることができたと思います。
加賀藩の出発地点から行き先(目的地)までのルート
薩摩藩は大名行列で最長の移動距離を誇っていましたが、薩摩藩より土地・お金を持っているところがありました。
それは「加賀藩の前田家」になります。加賀百万石という言葉で知っている方も多いと思います。
加賀藩の大名行列は最大で4000人にも達したといわれています。
加賀藩の大名行列の特徴として殿様は籠に乗るのではなく、馬に乗っていたということでした。
これは城下町の人々に、殿様としての威厳を示すためにされていたといわれています。
その大名行列には、藩主が江戸城に参内している間に留守を預かる家老や大勢の藩士たちも、お見送りとして城下町に出向き行列に連なっていました。

諸大名は江戸に滞在している間に使用する地所を保有していた。
いわゆる大名屋敷といわれるているものです。
上屋敷・中屋敷・下屋敷がありました。
加賀藩の上屋敷は現在の東京大学の本郷キャンパスにあり、中屋敷は駒込、下屋敷は板橋にありました。
- 上屋敷:大名や旗本とその妻子が住むように建てられた住居のこと。
- 中屋敷:上屋敷の控えとして、非常用の避難所として使う屋敷のこと。
- 下屋敷:藩主家族の別邸。
または、荷揚げなどの際に一時的に倉庫として使用していた。
加賀藩はだいだい12~15日かけて江戸城に赴いていました。
そして、加賀藩は板橋まで来ると一時的に下屋敷に移動して、旅の動きやすい服装から正装に着替えていました。
下屋敷ではなく中屋敷まで直行することもありましたが、いったん上屋敷まで行かずに正装に着替えるために立ち寄っていました。
なぜわざわざ上屋敷の手前で旅の服装から着替えるのかというと、加賀百万石といわれる大地主の威厳を江戸の人に示すためにしていたのではないかと言われています。
このようにして多くの人々を連ねて江戸まで来ていた加賀藩は、他藩とはお金を割く箇所が違いましたよね。
もちろん前述の薩摩藩とは江戸との距離が違うということもありますが、莫大な費用をかけて江戸に参内していたのがわかると思います。
最後に
代表的な2藩の大名行列についていかがでしたでしょうか。
諸大名の中で土地やお金を保有していたのが、加賀藩前田家、その次に薩摩藩島津家でした。
石高のトップ2を見るだけでも、費用をかけるところも違うなということがわかると思います。
これだけ莫大な費用をかけて、藩の威信をかけて江戸に諸大名は参内をしていました。
前述した薩摩藩、加賀藩以外の藩についても調べてみたいと思いました。
