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大名行列の大半が通った東海道とはどんなところ

東海道は、参勤交代時の大名行列で多くの大名が利用した街道です。この記事では、この東海道について説明します。

目次

東海道とは何なのか?

東海道という言葉には二つの意味があります。一つは五畿七道と総称される行政区分の一つ、もう一つが駅路の一つです。

行政区分としての東海道は、伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸で構成されます。現在の都道府県でいうと、三重県、愛知県、静岡県、山梨県、神奈川県、東京都、埼玉県、千葉県、茨城県にあたります。

駅路とは、古代律令制における官道のことで、都、そして九州の要地である大宰府と五畿七道の国府とを繋ぐ道路網として整備されました。東海道も上記した国々(注)を通る道路として整備されたものです。

このように東海道は道路として古くからありました。ただし、道路としての東海道は、時代によって微妙にルートが異なっています。行政区分としての東海道も明治維新後の1869年に蝦夷地に北海道が設立されて五畿八道となって1885年までは使われていました。

歌川広重『東海道五拾三次之内 日本橋 朝之景』(東京富士美術館所蔵) 日本橋は東海道の始点

江戸時代の街道としての東海道

1601年、徳川家康は「五街道」の整備を命じます。この五街道とは、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道、そして東海道を指します。

家康のこの方針により、街道としての東海道が生まれることになりました。また、街道の途上には宿場が置かれました。日本橋を始点として三条大橋を終点とする東海道五十三次の誕生です。

距離は490㎞で、山間を通る中山道よりも40㎞ほど短いのですが、安部川、酒匂川、そして、馬子唄に「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と歌われた東海道最大の難所大井川では渡し舟を使うことは幕府から許可されていなかったので、川越人足にお金を払って川を渡してもらう必要がありました。

勿論、「入鉄炮出女」と呼ばれる規制も行われていました。江戸に鉄砲を持ち込むには老中の印が押された鉄炮手形が必要であり、女性が江戸から地方に移動するためには女手形が必要でした。女手形(御留守居証文とも言う)には、幕府留守居の印が必要であり、関所では、その印が正規のものであるか否かをチェックしていました。また、女手形には、旅先、女性の人相、素性などが記載されており、これらも関所でチェックされます。

とくに東海道の要地である箱根に設けられた箱根関では、女性の身体的特徴が女手形に記載されているそれらと一致するかをチェックするための専門の役職である髪改め女が常駐しており、厳しい検査を行っていました。女性が男装していることもあるので、男性と思しき人物もチェックされることがありました。男性の方が手形を取得しやすいので、女性が男性であると偽って手形を取得することも考えられたからです。

このように女性に対して厳しい制限が設けられていたのは、大名が江戸に人質として残している妻が江戸を脱出して領地に帰ってしまうことを防止する目的があったからです。

ただし、湯治や伊勢神宮への参拝などを目的とした旅行の場合には、「書替手形」が発行されており、関所での手続きもより簡易なものでした。「書替手形」を取得している者は幕府が予め身元を確認していると見做されたからです。

歌川広重の『東海道五拾三次之内 京師 三条大橋』 三条大橋が終点

以上、東海道について説明しました。

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